本や他人の言葉で主張を語られると意見の返しどころがない
文書を書くとき、「本や他人の言葉を引用して自分の主張に使うことはあっても、それらの言葉を自分の主張として語るべきではない」ということを肝に命じて記述している*1。
正直言うまでもないことだが、本や先達の言葉を引用しつつ自分の意見を主張することには良い効果が多分にある*2。
例えば他から言葉を借りてくることで自分の主張を補強できたり、複雑な背景や説明をあえて他のソースに委ねることで読み手・聞き手の前提を揃える助けになることもある。あるいは借りなかった場合、既存の語句を自分の言葉で再定義したが故に主張が伝わりづらくなってしまうこともあると思う。
一方で、本や他人の言葉を適切に借りるためにはテクニックと経験が必要になる。適切でない借用、例えば借りてきた言葉がそのまま自分の主張となってしまうような表現は誰にとっても良い効果がない。その主張に対して意見を返そうとしても、それは主張者(Aさん)ではなく他ソース(Bさん et.al)に対する意見になりがちだからだ。
A さんが「Bさんによると X という問題がある」「語句Yの定義をBさんのいうZとする」といった形で B さんという他ソースに丸投げした場合、問題 X があること自体・Zという定義に懐疑的な意見は一体「誰」に対する意見なのだろうか。多くの場合、B さんがその意見に直接答えることはできないため A さんが答えるしかない。しかし A さんは B さんの代理人ではないので、B さんの主張を勝手に広げる行為はできない*3。そもそも他人の主張を代弁すること自体、非常に難しいというか無理がある。もし意見のやり取りをする上でそのような状況に陥った場合、意見の向き先が迷子にならずとも孫引きや伝言ゲームのように情報が劣化・歪曲されてしまうことは想像に難くない。
ここで、特に本をソースとした場合は一定の(謎の)説得力を持ってしまう点も忘れてはいけない。さらにこの問題はその一定の説得力が効かないような踏み込んだ話であったり、ストーリー性に違和感が発生したときに表面化してしまう。最悪の場合だと、主張の根拠を失う結果になることもある。それでも指摘しないことは健全ではなく、指摘をすると空気が悪くなってしまう。誰も得をしない。全員が損をしている可能性すらある。
話は少し飛んで、ソフトウェア開発の中でもこのようなリスクが露出してしまった場面を時々見かけた。
- コードを理解することなく Stack Overflow などから借用してきたため、修正の根拠を聞いても「Stack Overflow に書いてあったので」「分からない」と返される
- 著名な設計に関する本で言及された設計思想やパターンを(言及されていることを以て)良い・正義とする
- 語句を「〜本に出てくる」という覚え方をしているため、その語句の意味を説明しようとしても答えられない
- J○ke が言ってた*4
勿論、一定の説得力の中で話が進めばそれはそれで問題がないのかもしれない。そんな場面が多いのか少ないのか、そして良いのか悪いのかは分からないが・・・。
なんにせよ、文書でもコードでも、「本や他人の言葉を引用して自分の主張に使うことはあっても、それらの言葉を自分の主張として語るべきではない」をこれからも意識していきたい。
とある文書を書いていたら下書きが全部吹き飛んでしまったので、正直いうと今は自分の主張を「この本(数冊)を読んでおいて」で済ませたくなっている。とてもつらい。