普通に設定を勘違いしてたので、大変嘘です
「君の名は。」最高ですよね.最高.早く4回目を見ないといけない気がする.小説もすごくよかった.

- 作者: 新海誠
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/メディアファクトリー
- 発売日: 2016/06/18
- メディア: 文庫
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さて,隣の席の人と「繭五郎の大火」なる設定について軽く話したので,自分なりに考察してみる.
とはいえ映画だけでは無理で,Another sideも読む必要があると思っている.
まだAnother sideを読んでいない人は先に本を読んで欲しい.
繭五郎という名前
糸守は組紐などの糸に纏わる伝統があるということで,繭はそれの1つを示唆していそう.
一葉,二葉,三葉,四葉と来ているので,ここで五が出てくる辺り,すごく重要な関係がある.
顔どころか回想もないにも関わらず,「ぞうり屋」とまで設定があり,深掘りできそう.
・・・と見えるだけな気がする.元々はもっと掘り下げて設定が強固だったのかもしれないのだけれど.
しかしながら,少なくとも現状の立ち位置で見ると,特にストーリー上の意味はない.
映画での繭五郎の大火の意味
繭五郎の大火で古文書や元々のお宮等,様々なものが失われ,御神体は作中の山の中に移動させられた. 移動していないっぽい?繭五郎のせいでなぜあそこにあるのか分からないだけ・・・?
またそれ以前より伝えられていた舞や組紐の文様はその形だけが残り,残念ながら一子相伝の史実や意味合いといったものは失われた.
おばあちゃんの持論は「意味は消えても,形は決して消しちゃあいかん」で,実際に舞などは今でもなお行われる.
という話は映画内でも説明されている.
また繭五郎は四葉に「かわいそう」と同情されている.羨ましい.僕も同情されたい.
繭五郎の大火がなかったらどうなっていただろうか.
まず,隕石は宮水神社あたりに落下する.御神体が神社の付近にあったとしたら,全て吹き飛んでいただろう.
つまり瀧くんは御神体に辿りつけなかった可能性がある.
その場合,瀧くんは高山ラーメンを食べ,糸守高校へ行き,絶望する・・・という何とも言えない映画になっていただろう.
それで奥寺先輩と結ばれるのかもしれないが,多分新海誠監督のことだから最後はすれ違いから別れて終わる気がする.
瀧くんもきっと東京で日々弾力を失っていく日々を・・・
それはそれで見たい気もする.
ねえ知ってる?小さい隕石の落ちるスピード.秒速数百メートルなんだって.みたいな.
移動していないとしたらこの物語は存在しない・・・(´;ω;`)ウッ…
というのは冗談で,映画中では「御神体が遠いこと」の説明付けでしかない.(もちろん,このことから必要な出来事であると捉えることも可能)
また「意味は消えても,形は決して消しちゃあいかん」という言葉だけを聞けば良い話に聞こえるが,加えて「繭五郎のせいでわしにも分からん」の言葉を考えると,含まれる意味を探ろうともその価値を見出そうともしていない.ということが分かる.
ステレオタイプかもしれないが,この思考は閉鎖的な環境,田舎の負を連想させる.
Another sideによる補完を用いた繭五郎の大火
Another sideでは
- 三葉のお父さんは元学者で,神学信仰を研究していた.宮水の失われた伝承の(彼の満足する形での)補完が研究内容.
といった内容が語られる.
その研究の一つとして宮水へ直接赴き,取材をし,そして二葉と出逢ったのだと書かれている.
しかし,繭五郎の大火がなかったらどうだろうか.
三葉のお父さんは,糸守から失われた伝承を自身の満足のいく形で補完するべく,宮水神社を訪れ,二葉と出逢う.
しかし,そもそも糸守から伝承が失われなければみつパパと二葉は出逢うことがない.
つまり繭五郎は恋のキューピッドなのである.
とまあなんか超適当になったけれど,『少なくとも今は』ストーリーとしての意味を特に持っていないと思っている.
隣の人も言っていたけれど,「最初はもっと凝った設定があって削った結果が今」という話で割と納得が言っている.
なんで削ったと考えるかというと,「わざわざ意味のない設定は持ち出さないだろう」という期待と「小説・映画とコミックとの差分」に対する考えにある.

- 作者: 琴音らんまる,新海誠
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/メディアファクトリー
- 発売日: 2016/08/23
- メディア: コミック
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映画や小説では口噛み酒の奉納のための山中,三葉(瀧くん)が『繭五郎って誰』と聞くと四葉は「え?有名やよ?」と返す.
それがコミックでは,四葉が『なにいってんだこいつ』みたいな対応をしている風に描かれる.
個人的にはこの差を原作が書き換えられたとする可能性の1つじゃないんかなと思っている.
というのも,原作も最初は多分コミックの流れで進んでいたんじゃないだろうか.(というかコミックが参考にした段階での原作がそれ)
そのときの設定ではもっと繭五郎の大火に対する説明や深掘りがあって,「なんでやなんで覚えてないんや」みたいな感じの四葉可愛い の対応が適切なんじゃないかと.
ただそのあと繭五郎の大火の説明を深掘りしても・・・みたいな感じで削らざるを得なくなり,「含まれる意味を探ろうともその価値を見出そうともしていない」みたいな感じをより強くするために四葉に知ったかぶりをさせたんじゃないのかな・・・と勝手に思っている.
まあ何にせよ,最高の映画だった.